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A_Learner

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「努力することに意味はあるのか?」という命題の物理主義的解釈

1つ叶えたい夢がある。その夢は努力によって叶うのだろうか。本記事のテーマはこれである。具体的には、哲学における物理主義の立場から、努力することに意味があるのかを考えた。「何をやったって無駄だ」、1度でもそう考えたことがある人々には必ず目を通してほしい内容となっている。

 

私の主張を話す前に、物理主義やその他の概念についていくらかの前提知識をもってもらうことになる。したがってまず続いていく文章は一見読む気の失せる解説文だが、その実難しいことは話していないので構えず読み進めてほしい。

 

 

 

物理主義とデカルト的二元論

「物理主義」とは、この世の一切を物理的現象として説明しようとする立場である。代表的なものは「心」はあくまで傾向性(=機能)の塊であり、心というものが存在しているわけではないと考える機能主義だ。傾向性とは「ああすればこうなる」という性質、例えば水に浸すと溶解する、圧力を加えると平べったく伸びる、といったようなものである。このような性質の集合体に過ぎないと考えることで、心は説明のつく現象となり、またこれを利用して心の問題を解決しようとする神経言語プログラミング(NLP、Neuro-Linguistic Programming)といった手法も存在する。

 

心が存在しない、という主張には多くの人々が反論を試みるが、そのような人々の脳内には、「われ思う、ゆえにわれあり(Je pense, donc je suis / cogito ergo sum)」で有名なデカルトによる物心二元論的な心身観が根付いている。これはあらゆる事柄をあえて疑いつくしてみると、疑っている主体の存在としての私がいることは疑えないということがわかる、という意味で習った人もいるかもしれない。しかし、「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉の使用規則を疑っていない時点でこれはおかしな論理なのだ。また、「水槽の脳」を知っている人にもこの論理の不完全さは理解されうるだろうと思う。

 

 

物理主義的決定論―今の「状態」で決まる未来

物理主義というこの記事での基本的な考え方を導入したところで、次に紹介すべきは「物理主義的決定論」であると思う。これを理解するために必要なキーワードは、「物理現象の因果的閉包性」・「ラプラスの悪魔」・「コペンハーゲン解釈」の3つだ。以降、順番に解説していく。

 

「物理現象の因果的閉包性」とは、「物理現象を引き起こすのは物理現象だけである」ということを、漢字を利用して用語として圧縮したものだ。意味はこれだけなので何ら難しいところはないはずである。例えば、石を握った手を空中で開くと、その石は地面に向かって落ちていく。この過程には何かオカルトチックな力が働いているわけではなく、重力に従って移動したというだけである。

 

続いて「ラプラスの悪魔」であるが、これは知っている人も多いのではないだろうか。フランスの数学者・天文学者であるピエール・シモン・ラプラスはその著作の中で、仮に宇宙のある時点における、すべての粒子(原子)の位置と運動状態を把握し、その因果関係を計算し尽くせる知的存在がいるとしたら、その目には未来の全てが見えているだろう、と述べた。これはそのような知的生命体がいるということではなく、むしろそんな存在のことなどどうでもよく、未来は過去のある時点における物理的状態によって一つに決まっている、とい主張であった。この考えは19世紀の間支持されるが、その後登場する「コペンハーゲン解釈」により棄却されることとなる。ではなぜ紹介したのかといえば、これを知っておいたほうが続く解説も頭に入りやすいだろうと考えたからである。

 

最後に「コペンハーゲン解釈」だ。これは量子力学の標準的な解釈であり、「ミクロレベルの物理的変化は”本質的”に確率論的である」とする見方である。これはこの世の物理現象がすべからく確率論的(偶然の産物)であるということでは決してない。見かけは偶然に見えなくとも、見えないその根本(本質)は確率論的である、という意味である。この概念の登場によって、「過去の物理的状態によって未来はすべて決まっている」という考えから、「この世のすべては物理法則に従う、ただし事前に未来が決まっているわけではない」という考えに移行した。

 

 

宿命論―何をやっても結末は同じか

物理主義的決定論を解説すると、必ず「宿命論」と混同する人々が現れる。言われてみると似ているような気がしないでもないが、これらは全くの別物であり、むしろ宿命論とはばかげた主張である。

 

「宿命論」(fatalism)とは、現在から未来への道筋がどのようなものであるかにかかわらず、必ずただ一つの未来に行き着くという主張である。が、この考えは物理主義の立場からしてみれば全くの間違いである。なぜ間違っているのか、1つの例え話とともに説明しよう。

 

哲学者M.ダメットは、書物『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)の中で、戦時中に次のような主張をする宿命論者を描いている。「我々は空襲で死ぬか死なないかのどちらかだ。どちらであるかは既に決まっている。前者なら予防策は役立たない。後者なら予防策は不要だ。どちらにしても予防策を講じるのは無駄だ」。すなわち人々が空襲で「必ず死ぬ」か、「必ず生きる」かのどちらかである、という主張である。これを読んだあなたは、いくらかの違和感を感じたのではないだろうか。

 

これは明らかな詭弁、嘘を交えた論理である。空襲に際して人々が死ぬか死なないかのどちらかであることは確かだが、前者において予防策が役立たないはずはない。この「予防策」に従って、例えば人々が、空襲が来るはずのない地域へ避難した場合、人々の生存確率が上がるのは明らかである。必ず生きる、というよりも、「生きる確率がより高い」というほうが適切だ。極端な話、この宿命論者の主張が正しいと仮定すると、空襲の被害に遭う予定だった人々を地球上のあらゆる土地に避難させても、そのすべての避難民のもとへ爆撃機がやってきて、避難民は爆弾の餌食となる必要がある。この主張に無理があることは想像に難くない。

 

 

努力することの意義

先述した空襲のシチュエーションにおいて、政府がその土地の人々を空襲から逃がすために様々な努力をする、と仮定しよう。当然、空襲後の結末を決めるのは「物理現象の因果的閉包性」、すなわち物理現象の連関であり、政府の頑張りが直接未来を変え得るというわけではない。しかし、「政府が何もしない状態」よりも、「政府が救命の努力を怠らない状態」であるほうが、空襲後に「人々が生存する状態」が導かれる可能性はその分高いだろう。というのも、「人々の生存」という物理的状態を意図的に作ることで、その実現可能性を高めることが可能だからだ。

 

「何か達成したい目標があるとき、その目標が達成された時の状態を具体的に想像しろ」という文言を聞いたことはないだろうか。これはつまり、今まで解説してきたように、「目標が達成されている状態」の実現可能性をより高くするために、現在の物理的状態を変えるということなのである。例えば、ある人がイラストレーターとして生計を立てたいと考えたとしよう。その場合、「毎日イラストの技法を学び、実践し、自己の技能を高めている状態」であることは、「その人がイラストレーターとして生計を立てている状態」を導く可能性を高めるだろう。

 

私たちは例の悪魔ではないので、当然達成されるのかどうかは最後まで分からない。しかし考え方を変えると、達成をあきらめさえしなければ、物理的に実現可能な目標はすべて達成しうると考えることもできるのである。夢を見る者は、その夢を物理的に実現可能か確かめ、その物理的状態を目指して一心に物理現象を積み重ねていくのみである。